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箏曲家 鈴木創 公式ブログ「ことはじめ」

群馬県前橋市を拠点に活動する箏曲家鈴木創の公式ブログ「ことはじめ」です。

前橋空襲

5 8月

前橋にとっての大切な日

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

今日8月5日は、前橋にとって大切な日、そう、前橋空襲の日です。

昭和20年のこの日、前橋の中心地はアメリカ軍の空襲により、焼け尽くされました。 
おそらく、私のお稽古場の場所も、そうだったのでしょう。いや、むしろ、空襲目標の中心地に近い場所だったと思います。

熊野神社と、慰霊碑にお伺いし、世界平和と、これからの前橋の発展をお祈りしました。

慰霊碑は、近隣の自治会の方が毎年慰霊の祈りを捧げていますので、その邪魔にならない時間に行ってきました。

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17 8月

あたご歴史資料館

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家鈴木創です。

先日、私の手元に、
「記録でつづるあたご歴史資料館」
という本が届きました。


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これは、前橋市住吉町二丁目にあった「あたご歴史資料館」がこの3月に閉館となり、それをきっかけに作成された本です。

「あたご歴史資料館」は、75年前に前橋の中心市街地を襲った空襲のことをメインに展示していた資料館で、住吉町の地域の方々によって運営されていました。

大切な資料を保管し、地域の方が管理や説明を行い、市内の他施設との連携や、さまざまな団体との協力を通じ、前橋の歴史の顕彰に大きな役割を果たした資料館です。

しかし、関係する方々の高齢化などにより今年3月に閉館となりました。
展示物などは前橋市が中心となって今後のありかたを検討している様ですが、ぜひまた前橋市の歴史を雄弁に語るモノの証人として、有効に活用していただきたいです。

この本、とても良く構成されています。

本を作成した主旨 → あたご歴史資料館開設の経緯 → 以前のあたご歴史資料館のある地域の状況 → 柳座の考察 → 戦時下の時代(実際に当時を生きた方の証言) → 対談:戦後の生活 → 旧安田銀行担保倉庫現況と今後 → あたご歴史資料館から学んだ7年 → 前橋空襲の被害状況の被害と分析を目的とした米国陸軍によって撮影された前橋中心市街地の映像シーンの詳細についての調査 → 編集後記

となっており、
あたご歴史資料館のことを軸に、地域の歴史、地域に残る歴史的な建物の詳細、そしてきっても切り離せない前橋空襲の話しなどから、住吉町地域と前橋の中心市街地の歴史が、あたかも自分の目の前で繰り広げているかのように理解することができます。

その中で、印象的だった言葉が「戦時下の時代」という文章の終盤にある、

「ふと振り向くと、廃墟の中に凜としてそびえ立つ「麻屋百貨店」「麻屋」が元気だ。そうだ私たちも頑張ろう。」

という一文です。

「麻屋」は、前橋の中心市街地のまさに中心に、昭和9年にオープンした鉄筋コンクリート造アールデコ調の群馬県で最初の百貨店で、当時の最先端を行く施設でした。

空襲で焼け出された方が、その麻屋を見て、復興への決意を新たにした、そんな力を持った建物です。
 
昭和39年には麻屋としての営業は終了していましたが、私が子供の頃から、1階でテナントが入居して営業していました。
そのころ見てもお洒落な建物で、前橋の中心部の一つのシンボルで、登録有形文化財になっていました。 

その建物を、当時の市政関係者たちが、平成23年に解体をしてしまったんです。
その頃から私は、前橋の歴史とシンボルを破壊する、犯罪的行為と感じていました。
本当に前橋は、素晴らしい宝物を失いました、、、

また、この本に出てくる「柳座」は、あたご歴史資料館の隣接地に、明治初年から昭和18年まで存在した芝居小屋です。

この本では、柳座での公演内容が、明治前半から昭和18年まで、一覧表となってかなり詳しく掲載されています。

その中に、こんな項目が!

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昭和7年、宮城道雄先生が、柳座にいらしていたことがわかりました!

今までは、「大正末期に来ていた」という話しはあったのですが、この資料によって、時期は違いますが、宮城道雄先生が確実に来ていたことが分かりました。

こんど、柳座の跡地に立ってみたくなりました。

今回の本、市民が生の声でまとめた前橋の歴史という面で、とても大きな資料価値があると思います。
ここまであたご歴史資料館に尽力された皆様や、今回の本の編集に携わった皆様に、深い敬意を感謝を表します。

 
5 8月

前橋空襲の日

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家鈴木創です。

今日、8月5日は、前橋空襲の日です。
昭和20年8月5日の夜10時過ぎ、前橋はアメリカ軍による空襲を受け、市街地の80%が消失し、500名以上の方が亡くなりました。

下の写真は、広瀬川の川辺にある慰霊碑です。
ここには大きな防空壕があり、その中で多くの方が亡くなりました。
広瀬川にも、多くの死体が流れていたそうです。
私が好きな前橋の街や広瀬川には、そんな悲しい歴史もあるんです。

この慰霊碑では、地元の方を中心に8月5日に慰霊祭が行われています。
私は毎年、その慰霊祭が終わってからこの慰霊碑を訪れ、手を合わせています。


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下の写真は、慰霊碑敷地内にある碑文です。
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そして、慰霊碑のすぐ側にある橋、比刀根橋(ひとねばし)。
昭和8年竣工ですので、空襲や、その後の前橋の復興を見守ってきました。
どこかに機銃掃射の跡があるそうです。


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竣工から90年近く経っても立派に役割を果たしている橋。
しっかり作った構築物は、お金をかけてもその分長く使うことができます。
戦後の公共事業などで作った建物などが「老朽化」の名の下に建て替えられたりしているのを見ると、疑問に思うことがあります。
前橋には、この橋や、群馬会館・群馬県庁の昭和庁舎・臨江閣など、戦前に建てられて、今でも役割を果たしている建物があります。
今でも通用する幅の橋を立派に作った当時の方達の先見の明に驚きます。

近くの熊野神社でも、慰霊祭を行っていました。

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境内には、空襲の様子や、被災地域を表した図が掲示されていました。

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この図をよく見ると、官庁や教会、交通機関は残していることがわかります。
アメリカが、如何に空襲する地域を研究し、精密に計画を練ったかがわかります。

前橋は、中島飛行機の工場が2カ所にあり、また基幹産業であった製糸工場も軍需工場に転換させられていたので、空襲の対象となったのではないでしょうか。
でも、木造家屋を狙った焼夷弾による攻撃は、一般市民に対する無差別殺戮です。戦争はアメリカが勝ったから、その行為は罰せられておりませんが、もし結果が違ったら、こういう空襲や原爆を落とした行為は、責められていたのではないでしょうか。

その中島飛行機の工場は、一カ所は戦後ダイハツ車体の工場になり、今は「けやきウオーク」というショッピングモールになっています。もう一カ所は、前橋工業高校と富士重工系列の会社の工場となり、前橋工業は移転したので、その跡はスーパーなどの商業施設になっています。

大蓮寺では、慰霊法要を行っています。
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今日は、市内の宗教施設が共同で、時間を合わせて一斉に、慰霊のお祈りを行っています。

私が毎日歩き、食事をし、仕事をさせていただいている地域、74年前は、火の海になり、街は灰燼に帰しました。その時に被災した方の苦しみや無念さを思うと、胸が引き裂かれる思いがします。そして、その後の復興に携わった皆様の努力。そういった悲しみや努力があったからこそ、今、私が日々、前橋のまちなかで生活を送ることができます。

先にも述べたとおり、アメリカの行ったことは無差別大量殺戮です。でも、きちんとしたデータを検証せずに戦争に突入し、補給や作戦を論理的に考えずに戦線を不利に招き、相手国の軍隊に自由に空を飛ばせるまでにしてしまった当時の国家指導者たちも愚かです。

戦争をして、いいことなんかありません。巻き込まれた人たちは人生を変えられ、一生忘れない悲しみを背負います。国家は歴史に傷を刻みます。

復興に尽力した先輩方に感謝をし、そして世界平和を望みます。




 
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