こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。
この度、大ニュースが飛び込んできました!!
なんと、県庁前通りの工事現場で、前橋城の大手門の石垣が発見されたんです!!
この石垣、おそらく今から400年近く前の遺構で、約250年間、土の中に埋もれていたと思われます。
まずは、現地の写真を。
上の写真は、東から西に向けて撮影しました。
この石垣が、今回発見された遺構です。
石垣の向こう側に丸い石がいくつもみられますが、裏込めとみられています。
表面に鑿の跡があり、また隣同士の石が綺麗に並んでおり、当時の技術の高さが伺われます。
下の写真は、上の写真のパイロンの辺りから撮りました。
では、この石垣が前橋城の大手門のどこに相当するかというお話をします。
上の写真は、現地で昔の絵図を指差し、この場所を説明して下さった様子です。
下の写真は、私が持っている資料の、この部分を拡大して注釈を加えたものです。
酒井氏の頃の(詳しくは後述)前橋城の大手門です。
今回発見された場所を、オレンジ色で囲みました。
そして、最初の写真(もう一度下に掲載します)を撮った方向を、矢印で表しています。
撮影した場所は、ちょうど矢印のあたり、当時の堀の中でしょう。
この写真の真ん中で横に伸びる石垣が、上の大手門の絵の赤い張り出しの部分です。
そして左側で直角に曲がって向こう側に伸びている辺が、大手門前の橋の方に伸びています。
おそらく、電柱や道路のあたりから橋がかかっていたのではないでしょうか。
反対の、右側から直角に手前に向かって曲がっている部分が、櫓の一番隅あたりの下の石垣でしょう。
そして、泥水が溜まっているところとその手前が、お堀です。
ですので、下にはかなり深く、石垣が続いているはずです。
現地の方の説明によると、大手門の絵に書かれている櫓門は、4代目藩主酒井忠清の頃にはあったという言い伝えがあるそうです。
忠清は1637年から1681年の間に前橋藩主を務め、その間1653年には老中、1666年から1680年の間には大老に就任し、江戸幕府内で大きな力を持ったと言われております。
ですので、この石垣は、1600年代中盤には存在したと考えれます。
その後、酒井氏が姫路城に移り、前橋には松平大和守家(家康の次男結城秀康の系列。越前松平家)が入りますが、利根川に城地が侵食されたために、1767年に川越城に居城を移します。
前橋城は川越藩の代官支配となり、1769年に廃城となります。
この際に櫓などは棄却されましたが、おそらく下層部の石垣は残されたまま埋められ、約250年たった令和の今、発見されたのでしょう。
この発見の大きな意味、そして私の興奮、わかっていただけるでしょうか!!
その後、前橋城は再建され、再度川越から松平家を迎えます。
しかし直後に明治維新となり、再びお城は棄却され、この地域は官庁街として整備されたり、土地が民間に払い下げられました。
そして太平洋戦争では空襲の被害に遭い、その後の復興を経て、今に至っています。
すなわち、この石垣は、前橋の代官支配、お城の再建と再度の棄却、明治時代の整備、空襲、復興、その全てを土の中でずっと見守り続けてきたんです!
もう一度言います。
この発見の大きな意味、そして私の興奮、わかっていただけるでしょうか!!
今回はこの土地に計画されている建築工事にともない、発見されました。
この石垣は埋め戻されてしまいますが、偶々石垣の上部は建物は建たずに駐車場となる計画とのことです。
でも、何らかの形で、この石垣の存在が皆さんにわかる様になってくれることを望みます。
この度、大ニュースが飛び込んできました!!
なんと、県庁前通りの工事現場で、前橋城の大手門の石垣が発見されたんです!!
この石垣、おそらく今から400年近く前の遺構で、約250年間、土の中に埋もれていたと思われます。
まずは、現地の写真を。
上の写真は、東から西に向けて撮影しました。
この石垣が、今回発見された遺構です。
石垣の向こう側に丸い石がいくつもみられますが、裏込めとみられています。
表面に鑿の跡があり、また隣同士の石が綺麗に並んでおり、当時の技術の高さが伺われます。
下の写真は、上の写真のパイロンの辺りから撮りました。
では、この石垣が前橋城の大手門のどこに相当するかというお話をします。
上の写真は、現地で昔の絵図を指差し、この場所を説明して下さった様子です。
下の写真は、私が持っている資料の、この部分を拡大して注釈を加えたものです。
酒井氏の頃の(詳しくは後述)前橋城の大手門です。
今回発見された場所を、オレンジ色で囲みました。
そして、最初の写真(もう一度下に掲載します)を撮った方向を、矢印で表しています。
撮影した場所は、ちょうど矢印のあたり、当時の堀の中でしょう。
この写真の真ん中で横に伸びる石垣が、上の大手門の絵の赤い張り出しの部分です。
そして左側で直角に曲がって向こう側に伸びている辺が、大手門前の橋の方に伸びています。
おそらく、電柱や道路のあたりから橋がかかっていたのではないでしょうか。
反対の、右側から直角に手前に向かって曲がっている部分が、櫓の一番隅あたりの下の石垣でしょう。
そして、泥水が溜まっているところとその手前が、お堀です。
ですので、下にはかなり深く、石垣が続いているはずです。
現地の方の説明によると、大手門の絵に書かれている櫓門は、4代目藩主酒井忠清の頃にはあったという言い伝えがあるそうです。
忠清は1637年から1681年の間に前橋藩主を務め、その間1653年には老中、1666年から1680年の間には大老に就任し、江戸幕府内で大きな力を持ったと言われております。
ですので、この石垣は、1600年代中盤には存在したと考えれます。
その後、酒井氏が姫路城に移り、前橋には松平大和守家(家康の次男結城秀康の系列。越前松平家)が入りますが、利根川に城地が侵食されたために、1767年に川越城に居城を移します。
前橋城は川越藩の代官支配となり、1769年に廃城となります。
この際に櫓などは棄却されましたが、おそらく下層部の石垣は残されたまま埋められ、約250年たった令和の今、発見されたのでしょう。
この発見の大きな意味、そして私の興奮、わかっていただけるでしょうか!!
その後、前橋城は再建され、再度川越から松平家を迎えます。
しかし直後に明治維新となり、再びお城は棄却され、この地域は官庁街として整備されたり、土地が民間に払い下げられました。
そして太平洋戦争では空襲の被害に遭い、その後の復興を経て、今に至っています。
すなわち、この石垣は、前橋の代官支配、お城の再建と再度の棄却、明治時代の整備、空襲、復興、その全てを土の中でずっと見守り続けてきたんです!
もう一度言います。
この発見の大きな意味、そして私の興奮、わかっていただけるでしょうか!!
今回はこの土地に計画されている建築工事にともない、発見されました。
この石垣は埋め戻されてしまいますが、偶々石垣の上部は建物は建たずに駐車場となる計画とのことです。
でも、何らかの形で、この石垣の存在が皆さんにわかる様になってくれることを望みます。