大蓮寺
5
8月
こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家鈴木創です。
今日、8月5日は、前橋空襲の日です。
昭和20年8月5日の夜10時過ぎ、前橋はアメリカ軍による空襲を受け、市街地の80%が消失し、500名以上の方が亡くなりました。
下の写真は、広瀬川の川辺にある慰霊碑です。
ここには大きな防空壕があり、その中で多くの方が亡くなりました。
広瀬川にも、多くの死体が流れていたそうです。
私が好きな前橋の街や広瀬川には、そんな悲しい歴史もあるんです。
この慰霊碑では、地元の方を中心に8月5日に慰霊祭が行われています。
私は毎年、その慰霊祭が終わってからこの慰霊碑を訪れ、手を合わせています。
下の写真は、慰霊碑敷地内にある碑文です。
そして、慰霊碑のすぐ側にある橋、比刀根橋(ひとねばし)。
昭和8年竣工ですので、空襲や、その後の前橋の復興を見守ってきました。
どこかに機銃掃射の跡があるそうです。
竣工から90年近く経っても立派に役割を果たしている橋。
しっかり作った構築物は、お金をかけてもその分長く使うことができます。
戦後の公共事業などで作った建物などが「老朽化」の名の下に建て替えられたりしているのを見ると、疑問に思うことがあります。
前橋には、この橋や、群馬会館・群馬県庁の昭和庁舎・臨江閣など、戦前に建てられて、今でも役割を果たしている建物があります。
今でも通用する幅の橋を立派に作った当時の方達の先見の明に驚きます。
近くの熊野神社でも、慰霊祭を行っていました。
境内には、空襲の様子や、被災地域を表した図が掲示されていました。
この図をよく見ると、官庁や教会、交通機関は残していることがわかります。
アメリカが、如何に空襲する地域を研究し、精密に計画を練ったかがわかります。
前橋は、中島飛行機の工場が2カ所にあり、また基幹産業であった製糸工場も軍需工場に転換させられていたので、空襲の対象となったのではないでしょうか。
でも、木造家屋を狙った焼夷弾による攻撃は、一般市民に対する無差別殺戮です。戦争はアメリカが勝ったから、その行為は罰せられておりませんが、もし結果が違ったら、こういう空襲や原爆を落とした行為は、責められていたのではないでしょうか。
その中島飛行機の工場は、一カ所は戦後ダイハツ車体の工場になり、今は「けやきウオーク」というショッピングモールになっています。もう一カ所は、前橋工業高校と富士重工系列の会社の工場となり、前橋工業は移転したので、その跡はスーパーなどの商業施設になっています。
大蓮寺では、慰霊法要を行っています。
今日は、市内の宗教施設が共同で、時間を合わせて一斉に、慰霊のお祈りを行っています。
私が毎日歩き、食事をし、仕事をさせていただいている地域、74年前は、火の海になり、街は灰燼に帰しました。その時に被災した方の苦しみや無念さを思うと、胸が引き裂かれる思いがします。そして、その後の復興に携わった皆様の努力。そういった悲しみや努力があったからこそ、今、私が日々、前橋のまちなかで生活を送ることができます。
先にも述べたとおり、アメリカの行ったことは無差別大量殺戮です。でも、きちんとしたデータを検証せずに戦争に突入し、補給や作戦を論理的に考えずに戦線を不利に招き、相手国の軍隊に自由に空を飛ばせるまでにしてしまった当時の国家指導者たちも愚かです。
戦争をして、いいことなんかありません。巻き込まれた人たちは人生を変えられ、一生忘れない悲しみを背負います。国家は歴史に傷を刻みます。
復興に尽力した先輩方に感謝をし、そして世界平和を望みます。
今日、8月5日は、前橋空襲の日です。
昭和20年8月5日の夜10時過ぎ、前橋はアメリカ軍による空襲を受け、市街地の80%が消失し、500名以上の方が亡くなりました。
下の写真は、広瀬川の川辺にある慰霊碑です。
ここには大きな防空壕があり、その中で多くの方が亡くなりました。
広瀬川にも、多くの死体が流れていたそうです。
私が好きな前橋の街や広瀬川には、そんな悲しい歴史もあるんです。
この慰霊碑では、地元の方を中心に8月5日に慰霊祭が行われています。
私は毎年、その慰霊祭が終わってからこの慰霊碑を訪れ、手を合わせています。
下の写真は、慰霊碑敷地内にある碑文です。
そして、慰霊碑のすぐ側にある橋、比刀根橋(ひとねばし)。
昭和8年竣工ですので、空襲や、その後の前橋の復興を見守ってきました。
どこかに機銃掃射の跡があるそうです。
竣工から90年近く経っても立派に役割を果たしている橋。
しっかり作った構築物は、お金をかけてもその分長く使うことができます。
戦後の公共事業などで作った建物などが「老朽化」の名の下に建て替えられたりしているのを見ると、疑問に思うことがあります。
前橋には、この橋や、群馬会館・群馬県庁の昭和庁舎・臨江閣など、戦前に建てられて、今でも役割を果たしている建物があります。
今でも通用する幅の橋を立派に作った当時の方達の先見の明に驚きます。
近くの熊野神社でも、慰霊祭を行っていました。
境内には、空襲の様子や、被災地域を表した図が掲示されていました。
この図をよく見ると、官庁や教会、交通機関は残していることがわかります。
アメリカが、如何に空襲する地域を研究し、精密に計画を練ったかがわかります。
前橋は、中島飛行機の工場が2カ所にあり、また基幹産業であった製糸工場も軍需工場に転換させられていたので、空襲の対象となったのではないでしょうか。
でも、木造家屋を狙った焼夷弾による攻撃は、一般市民に対する無差別殺戮です。戦争はアメリカが勝ったから、その行為は罰せられておりませんが、もし結果が違ったら、こういう空襲や原爆を落とした行為は、責められていたのではないでしょうか。
その中島飛行機の工場は、一カ所は戦後ダイハツ車体の工場になり、今は「けやきウオーク」というショッピングモールになっています。もう一カ所は、前橋工業高校と富士重工系列の会社の工場となり、前橋工業は移転したので、その跡はスーパーなどの商業施設になっています。
大蓮寺では、慰霊法要を行っています。
今日は、市内の宗教施設が共同で、時間を合わせて一斉に、慰霊のお祈りを行っています。
私が毎日歩き、食事をし、仕事をさせていただいている地域、74年前は、火の海になり、街は灰燼に帰しました。その時に被災した方の苦しみや無念さを思うと、胸が引き裂かれる思いがします。そして、その後の復興に携わった皆様の努力。そういった悲しみや努力があったからこそ、今、私が日々、前橋のまちなかで生活を送ることができます。
先にも述べたとおり、アメリカの行ったことは無差別大量殺戮です。でも、きちんとしたデータを検証せずに戦争に突入し、補給や作戦を論理的に考えずに戦線を不利に招き、相手国の軍隊に自由に空を飛ばせるまでにしてしまった当時の国家指導者たちも愚かです。
戦争をして、いいことなんかありません。巻き込まれた人たちは人生を変えられ、一生忘れない悲しみを背負います。国家は歴史に傷を刻みます。
復興に尽力した先輩方に感謝をし、そして世界平和を望みます。
3
12月
こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家鈴木創です。
今日は、お稽古場近くの弁天通りで毎月3日に行われる「弁天ワッセ」に行って来ました。
いつもの月よりも、ちょっと人が多かった気がします。
こういう時は、知り合いに会ったり、初めて会う人とご縁がつながったり、いろいろな会話で新しいアイデアが生まれたりします。やっぱり人が集まるっていいですね。
来年の4月から、毎月第1日曜日に、新しいイベントも始まるそうです。
長く続くイベントになるといいな。
大蓮寺も、いつもよりもちょっとおめかし。
そして、大蓮寺の中にある弁天様に、日本の音をたくさんの人に楽しんでもらえるよう、そして芸道精進をお祈りしてきました。
今日は、お稽古場近くの弁天通りで毎月3日に行われる「弁天ワッセ」に行って来ました。
いつもの月よりも、ちょっと人が多かった気がします。
こういう時は、知り合いに会ったり、初めて会う人とご縁がつながったり、いろいろな会話で新しいアイデアが生まれたりします。やっぱり人が集まるっていいですね。
来年の4月から、毎月第1日曜日に、新しいイベントも始まるそうです。
長く続くイベントになるといいな。
大蓮寺も、いつもよりもちょっとおめかし。
そして、大蓮寺の中にある弁天様に、日本の音をたくさんの人に楽しんでもらえるよう、そして芸道精進をお祈りしてきました。