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箏曲家 鈴木創 公式ブログ「ことはじめ」

群馬県前橋市を拠点に活動する箏曲家鈴木創の公式ブログ「ことはじめ」です。

ラジオ

30 3月

まえばし心の旅を終えてラジオに出て。

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

今日は、まえばしCITYエフエムの、Mwave Evening Expressに出演させていただきました。

1年間担当した「まえばし心の旅」が無事に終了したことを受け、最後にゲストとしての参加です。

番組に、たくさんのリスナーさんからメールをいただきました。
それがとても嬉しく、思わず涙が出そうになりました。

この1年間、はっきり言って大変なこともありました。

最初はテーマが思いつくのですが、途中からなかなかテーマが思いつかなかったり、日によっては筆が進まなかったり。。。

また、「毎週」という締め切りは、けっこう追われる感がありました。

一つのエッセイを書くにも、調べ物をしたり、書いてからも何度も推敲を重ね、その後はむーちゃんが吹き込んでくれた音声データのチェックを行います。なので、けっこう時間がかかるんですね。

そんなことを振り返りながらの放送でした。

1年間の全てのエッセイと音声データは、noteにアップしておりますので、どうぞご覧ください。 

全46本のエッセイですが、できたら写真やエピソードを添えて、一冊の本にできたら嬉しいなあと思います。スポンサー募集しています!

それにしても、生放送を進めるむーちゃんは、すごいんです!

交通情報や天気予報などは、原稿がないんです!
ネットの情報を見て、それをその場で話し言葉にして伝えているんですね。

それと同時にBGMの切り替えやオンエア曲の操作をしたり、時間を確認しながら私と軽く打ち合わせをしたりと、本当に職人技を間近に見せていただき、ただただ感心しました。 

今、ホッとした気持ちと、少し寂しい気持ちが同居しております。

ここまで支えてくれたリスナーさん、ありがとうございました。 
16 9月

まえばし心の旅20:夕立

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

毎週水曜日、まえばしCITYエフエムでお送りしているラジオエッセイ「はじめのまえばし心の旅」、昨日9月15日のテーマは「夕立」でした。

リスナーさんからのメールで、「昔も夏は暑かった!1978年に35度を記録している」というご指摘をいただきました。ありがとうございます。その夏、私は2歳で覚えていません!(笑)

いろいろなご意見ご感想、そして聞きたいテーマ、番組にメールでお寄せ下さい!!

音声データは、こちらからお楽しみ下さい。

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ゴロゴロゴロ、ピカ!ドッカーン、ザー!

夏の夕暮れ時、なんとなく埃の匂いが舞い上がり、 そして雷が轟くと、それを合図とするかの様に、ザーッと雨が降る。その雨は、夏の暑い昼 から、ちょっと涼しい夜へと変わる転換点だ。


昭和の時代、夏の盛りでも、今の様に毎日30度を超える様なことはなかったと思う。朝は 暑さがまだかわいく、昼にピークがくる。そして夕立の後は、気温も下がり、風が抜け、窓 先に吊るした風鈴の音や、蛙や鈴虫の合唱が、涼しさを運んで来てくれる。

我が家は当時、 下細井の県営住宅に住んでいたが、エアコンはなく、窓を開けて扇風機だけで夏を過ごして いた。そして、夕立の後は、窓辺に座ったり、祖父母の家では、縁側から庭に足を下ろした りして、夕涼みをする。そういえば、祖父母の家に泊まった時は、夏は蚊帳を吊っていたの を思い出した。あれは、涼しさを取り入れるために、窓を開けて寝ていたからなのかもしれ ない。


その頃の雨は、まさに「夕立」と言うのにふさわしいさわやかなものだった。
それが今はどうだろう。8 月になると毎日30度を越し、呼吸をする息も暑く、殺人的な 日々が続く。暑さがパワーアップしたせいか、夕立もパワーアップして、もはやもう夕立で はない。「ゲリラ豪雨」とも呼ばれるが、もう日本は温帯ではなく熱帯となっていて、この 雨は「スコール」なんじゃないかと思う。
そして、雨が上がった後も、涼しくはならずに暑さとムシムシが続く。

夕立には情緒を感じるが、ゲリラ豪雨には恐ろしさしか感じない。
まあ、そんな夕立やゲリラ豪雨に共通するのは雷だ。急に暗くなった空に、一瞬の光が走る とともに、轟音が轟く。上毛カルタに「雷とからっ風義理人情」と詠われている様に、夏の 雷は、群馬の一つの名物であろうし、群馬県人の気性を形作っている要因の一つだろう。
また、旧宮城村にある電力中央研究所では雷の研究もしているといわれており、あれだけの 施設があるのも、夕立の雷のおかげかもしれない。

そういえば子供の頃、「おへそ出してると、雷様に持っていかれるよ!」と注意されたなあ。 あれは、服装をちゃんとしなさいとか、お腹を冷やして下痢をしたりしないようにという意 味だったのだろうか。

ようやく秋の足音が聞こえてきた。夕方のゲリラ豪雨に悩まされる季節も終わったかもし れない。でも、冬のからっ風とともに、夏の雨も、前橋の一つの風物詩と言えるだろう。


 
8 9月

まえばし心の旅21:パン屋さん

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

毎週水曜日、まえばしCITYエフエムで放送されている「まえばし心の旅」を公開いたします。

今日、9月8日のテーマは「パン屋さん」です。

放送の中で、パーソナリティーのむーちゃんが中学時代の話をしていましたが、僕と環境が似ているんですね!それもそう、むーちゃんと私は、同じ中学校の卒業なんです!

放送を聞いていて思い出したのは、やはり給食のパンですね。
揚げパンとか、やけに薄い食パンにジャムをぬったり。

みなさんからのメールが励みになっています!

音声データはこちらからお楽しみ下さい。

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前回に引き続き、食欲の秋をお届けしたい。最近、高級食パンのお店が話題になっている。 私も一回いただいたが、ふわふわの食感と、甘みのある味が、とっても美味しく、人気が出 るのがよくわかる。
 

みなさん、ひょっとしたらお一人お一人、お気に入りのパン屋さんがあるのではないかと 思う。昭和の前橋のパン屋さんで双璧をなすのは、フランスパンとチャコスであることは、 当時を知る方には、納得してもらえるだろう。


私が通った学校には、中学はフランスパン、高校はチャコスが売りに来ていた。中央駅の 前にあったフランスパンは、たまに母が買いに行き、フランスパン、いわゆるバケットを買 っており、知り合いの店員さんとよくおしゃべりをしていた。チャコスは、オレンジ色のト レーと、赤い袋に黒字のアルファベットで「チャコス」と書いてあるのが懐かしい。それと、 当時は共愛学園の学生さん御用達だった、「アジアパン」もあり、今も健在だ。
 

私は祖父母の家が日吉町にあり、後にその隣に住む様になったので、みずき通り沿いの 「アンナプルナ」がすぐ近くだった。お気に入りは、UFO パン。これは、お昼頃に焼き上 がる。まだ学校の授業があった土曜日、家に帰ってランドセルを下ろすと、アンナプルナに向かい、UFO パンの焼き上がりを待つ。やがて甘い香りが漂い、焼き立てが店内に運ばれ てくる。そうすると、当時近くにあった市女の高校生と競って取り合った。家に持ち帰り、半円形のちょっと硬い表面と、中のふかふかを楽しむ。下に貼られていた銀紙の回りに張り付いた、カリカリのところも美味しかった。「アンナプルナ」は、閉店間際に行くと、割烹着を着たお母様がお店に立っていて、売れ残りをサービスしてくれた。時には、買ったパンよりも、おまけの方が多いこともあった。
 

中学生になると、自転車で学校に通う様になった。食がない学校だったので、家の当がない日は、中にあった日吉町の「ぱんころりん」にった。通学範囲がかったので、 ラスの中で人かがそれぞれ、家の近や通学にあるお店のパンを買っていた。だから、当時の前橋のなパン屋さんの前は、だいたいえていた。
 

今は、フランスパンも、チャコスも、アンナプルナも、ない。でも、そのわりに、多 くのしいお店ができている。最にお話しした様な、チーンの高級食パンのお店、東京海外で行して来た本格的なお店など、様だ。スズランの下や、スーパーのにあるお店も見逃せない。
 

車でっていると、気ない住宅街の様なところで、いきなりちょっとした渋滞や、おさんの行ができていることがある。かと思ってみてみると、パン屋さんだったりすることが多い。思ってみれば、パンはおかずがなくても食になる。その味では手軽でおいしい、いい食だ。多くの人が、美味しいパン屋さんを求める気持ちがよくわかる。
 

うーん、だれか、「まえばしパン屋さんップ」でもってくれないかな。 
2 9月

まえばし心の旅21:焼きまんじゅう

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

毎週水曜日に「まえばしCITYエフエム」から放送している「はじめのまえばし心の旅」。 

昨日9月1日のテーマは、「焼きまんじゅう」でした。

「焼きまんじゅう」は、知らず知らずのうちに群馬県人の心に刻まれた味。

放送後のメールの反響もなかなか多く、中には焼きまんじゅうのお仕事をされている方もいらっしゃいました。また、リスナーさんのメールには、文章力・表現力も素晴らしいものが多かったですね!

音声データはこちらからお楽しみ下さい。


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早くも9月。季節は秋となり、「食欲の秋」に前橋の食べ物を考えたら、やっぱり「焼きまんじゅう」が出てくる。幕末発祥と言われる焼きまんじゅうは、前橋の名物であり、前橋っ子のソウルフードだろう。

 

つやつやの白い発酵まんじゅうを串に刺し、火の上に乗せる。そこに、大きな刷毛であの独特の味噌だれをつけると、何とも言えない香ばしい香りがただよい、前橋っ子の食欲を刺激する。

 

あの香りはけこう強く、学校から家に帰ったときに焼きまんじゅうがあると、匂いですぐにわかった。家族によると、「◯◯さんが持ってきてくれたよ」とのこと。そう、焼きまんじゅうは、誰かのお家に行く時の手土産にも重宝した。

 

食べるときは、串からひとつひとつ外してお皿に盛り、フォークやお箸で口に運ぶ。まあ、一口では無理だ。発酵まんじゅうのふかふかした食感と、それを包むたれのねっとりした食感を口の中で感じる。ふかふかした生地を噛んでいくと、味噌だれの味と香りが口の中に広がる。まんじゅう自体は空気を多く含んでいるせいか、見た目の大きさから想像するよりも、たくさん食べることができる。

 

そしてお約束なのは、食べた後は口の周りがタレだらけになることで、時には手にも付く。

 

焼きまんじゅうのお店は、前橋市内にもいくもあり、味などが違う。どの家庭も、お気に入りの焼きまんじゅう屋さんがあるだろう。我が家は下小出の田中屋さんだ。

 

たまに祖母が、「田中屋さんに連れて行って」と言うと、「焼きまんじゅうを食べたくなった」という合図だ。車を出して田中屋さんにいくと、餡子入りが食べたい祖母と、あまり食べたくない私の静かな口論が展開されることがある。

「いらないよー」「これもおいしいじゃない」

まあ、いつも両方買って行くのだが、、、

この、焼きまんじゅうのあんこ入りをどう思うか、これも隠れた前橋の論争のテーマだろう。

 

コロナ前は、年に一回、私が卒業した都内の大学の卒業生向けのイベント「ホームカミングデー」に、群馬県の卒業生で焼きまんじゅうを売りに行っていた。都内の方(かた)は、「まんじゅう」という名前から想像する姿からかけ離れたビジュアルと味に、最初は戸惑う様だ。最初の年は売ることに苦労したが、2年目からは一口サイズの「コロ焼きまんじゅう」にしたら、けっこう売れる。群馬出身の方からは、「懐かしいね」と声をかけていただける。

 

この反応を見ると、きちんとどんな食べ物であるかを発信し、食べやすいサイズで展開すれば、全国で売ることもできるのではないかと思う。

 

また、まちなかの中央イベント広場に、焼きまんじゅうのお店や、最近話題の焼きまんじゅう味のマフィンやおせんべいなどのお店に集まっていただき、「焼きまんじゅうフェス」をしてはどうだろうか。

 

コロナ後の群馬の発信や、まちなかの賑わいに、「焼きまんじゅう」はいかがでしょうか?

 

放送日:令和3年9月1日



 
26 8月

まえばし心の旅019:高校野球

こんにちは。はじめちゃんこと、群馬県前橋市の箏曲家、鈴木創です。

週に一回水曜日、まえばしCITYエフエムでお送りしている「はじめのまえばし心の旅」。 

昨日8月25日のテーマは「高校野球」でした。

リスナーの皆さんの反応も大きく、メールなども番組に大変たくさんいただきました!

音声データはこちらからお楽しみ下さい。

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今、熱戦が繰り広げられている甲子園。今年はコロナや雨に大きな影響を受けたが、夏の熱 い戦いを見ていると、子供の頃からの、様々な出来事を思い出す。

私の祖父が、前橋工業高校、いわゆる「マエコー」の野球部に関係していたので、子供の頃から前工野球部は生活の 一部だった。休みの日は毎週の様に祖父に連れられて、当時岩神にあった前工野球部のグラウンドに行っていた。夕食も野球部の生徒と一緒のこともしょっちゅうだった。夏休みなど の旅行先は、前工の遠征先。もちろん、敷島球場や城南球場の試合の応援も数えきれない程見に行った。

その中でも特に記憶に鮮明なのは、昭和 58 年の夏の県大会の決勝だ。前工対太田工業。現在埼玉⻄武ライオンズのジェネラルマネージャーを務める渡辺久信さんがマウンドに立っていたが、延⻑戦の末押し出しのフォワボールで、太田工業にサヨナラ負けをしてしまった。
 

そんな縁から、祖父は渡辺さんの結婚の際には仲人をし、私も披露宴に出席させていただい ている。その渡辺さんが⻄武ライオンズの監督就任 1 年目に日本シリーズで優勝を果たしたその日に、祖父が旅立ったのは、強い運命を感じる。きっと、祖父の魂は、決戦の場、東 京ドームにいたと思う。
 

私が大学生の頃、前工が甲子園で2 年連続ベスト4になった。テニスサールの練習日だったが、練習そっちのけで、テニスコートのテレビで甲子園を見ていた。その数年一高校が群馬としてめて甲子園で優勝したが、しい反面、それが前工でなかった のが、ちょっと複雑な心だった。
 

でも、私が業したのは前橋高校、マエタカだ。高校生の頃はもちろん、敷島にを運び、 「イ前橋!」をみんなでんだ。ただ、前高対前工の試合だけは、どっちを応援したらいいのかわからなかった。
 

社員平成 1年、前高がの甲子園に出場した。その時の任先の支店⻑が前工野球部のOB だったが、「前高が甲子園にいなんて滅多にないんだから、今日はまえはテレビを見てろ」とってださり、支店テレビ独占した。
 

その8年平成 22 年、前工がの甲子園に出場し、私も甲子園に応援に行った。その時の前工野球部の監督が、平成 1年に前高が甲子園に行った時の選手だった。これもかのり合わせと思う。
 

その頃、前高野球部の監督に、私の同級生が就任した。やはり、同級生が監督だと、応援に

熱がる。敷島球場のスンドに、部ご兄以外にやけに熱い一がいたが、それが私 たち監督同級ームだった。
 

平成 25 年、前橋育英高校が、甲子園出場優勝を果たした。決勝戦の日、会打 ち合わせで「今日は育英の応援にいきます」と宣言し、会にして元気 21 のパブッ クビューイングを見に行った。県の優勝、それも前橋の高校ということで、本当に上 がった。面白かったのが、育英業生の多くは甲子園りしたのだろうか、元気 21 に集 まっていたのは、前高業生がかったことだ。
 

高校野球は、1回負ければわりだ。そして、高校生に来年はない。その緊張感やき に続けてきた純粋努力。その経験は、高校球たちにとって、そのの人生に大きなと なるだろう。私たちにとっても、その姿がをもらう。勝けて頑張った一人 一人の、これからの人生にあらんとう。


 
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